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きのう、今日の土日の2日間、 「SLふくしま復興号」 C6120が旧型客車5両を牽引して東北本線郡山〜福島間を走りました。
特に28日の土曜日は、SLに向かって手を振ろうというイベントが行われたので、カメラマンのほかに沿線にお住まいの人々がたくさん集まりました。昨年九州新幹線全線開通記念のCMが大評判になりましたが、あんな感じのイベントです。
線路際に集合した沿線の方々もさることながら、乗務員の方もキャブからずっと手を振りっぱなし。汽笛も、これでもかというくらい連呼して大サービスです。お客さんも開けはなした窓から手を振っています。みんなで手を振ってたいへんです。
木々の緑も雑草も、今が盛りと生命力あふれる力強さがあります。夏本番の猛暑でクタクタになりながら撮影するのも、この季節ならではのものです。
昨日のホアランポーン駅とは一転して、同じタイ国鉄でもここはのどかなローカル線である。
有名なメークロン線はバンコクの西、ウォンエンヤイ駅が出発点である。ここはバンコク市内であるが、市内を流れる大河チャオプラヤー川を渡った川向こうにある。賑やかな所だが、川を渡っただけで雰囲気はぐっと庶民的になる下町だ。東京でいえば、上野や東京駅から少し離れた隅田川のほとりの浅草が始発駅といった感じだ。
メークロン線は川をはさんで二つに分断されている。本当は1本につなげたかったらしいが、あいだのターチン川に橋を架けることができなくてこのようになった。日本でも大河の手前で鉄道が終点になることはしばしばあることだ。
メークロン線概念図
メークロン線の沿線風景はそれほど変化のあるものではない。郊外の住宅地、塩田跡、養殖池、そんなのどかな田舎の風景が続く。
ここを有名にしたのは市場と駅が同居しているような終着駅の姿である。同居というよりは、もはや混在、あるいはカオスと言ってもいい。駅の中に市場があるのか、市場の中に鉄道が突っ込んでいるのか、判別がつかない。
始発駅ウォンエンヤイ。 すでにここでもホームには露店があっていい雰囲気だが、こんなのは序の口。
ウォンエンヤイ〜マハーチャイ間は通勤通学客が比較的多く、だいたい1時間に1本程度の列車密度だ。始発駅ウォンエンヤイから乗り込んだ列車は日本製のディーゼルカー。冷房がないので、窓全開、さらに自動ドアも全開にして豪快に走る。小学生なども乗っているが、誰も危険だとか言わない。みんな慣れている。
小一時間で終点マハーチャイだが、駅の手前で列車は最徐行する。線路上を占拠する物売りたちを排除するためだ。駅構内は薄暗いが、ホームに降りたとたん、目の前に肉屋があってニワトリがぶら下がっていたりするので楽しい。
マハーチャイ駅に到着する列車。一見ただの田舎駅だが、駅構内はほとんど市場。
マハーチャイ駅。 列車が到着して3分もたたないうちにこんな感じになる。 1日に何度も撤収と復元をするので、短時間でできるように工夫されている。
マハーチャイの町はターチン川の河口に近く、海産物問屋が非常に多い。バンコクより安いので買い出しに来る人もたくさんいる。最近では有名になって、タイの旅行ガイドブックにも載っているので、観光客の姿を見かけることが多くなった。
マハーチャイ駅から歩いて数分の港まで行き、渡船に乗って対岸のバンレム駅を目指す。川を渡ると、のどかな田舎町で、対岸のマハーチャイとは時間の流れが違うようにすら感じる。
同じメークロン線でも、ここからのバンレム〜メークロン間は超閑散線区である。列車は1日にわずか4往復。2両連結のディーゼルカーが行ったり来たりするだけだ。車内もがらがらだ。バンレム駅も列車がいない時は、現役の駅なのか、廃止になった駅なのかわからないほど閑散としている。以前水害で6ヶ月ほど運行休止していたが、まぁ休止しても誰も困らないようなローカル線である。
バンレム駅に入線してくる列車。 折り返してメークロン往きとなる。 ホームには人の姿があるが、露店の人や日陰で休憩している人が多く、乗客となるのは、このうちの少しだけ。
バンレム駅を出発した列車。路面電車ではないが、未舗装の併用軌道が続くシブい風景だ。
終着メークロン駅の線路上。 もはや駅という状態ではない。 日に4往復と少ないので、マハーチャイ駅よりもっとすごいことになっている。
列車が通る時には、物売りの人たちは 「仕方ないな」 といった顔でゆっくりと片付け始める。
メークロン駅の外れの行き止まり。 この先にもやはり川があって、その手前で鉄路は終わっている。
メークロン線も、このバンレム〜マハーチャイ間は営業係数からすると、いつ廃止になってもおかしくないような気もする。タイにいる時には暇つぶしに何度も行ったが、いつ行っても楽しいところだね。
タイに行ってきた。
前回はアユタヤの汽車の話だったが(こちら→http://blog.rail-on.com/2012/07/post-7bd9.html )今回はバンコクである。
首都バンコクの中心部は自分が住んでいた、つい4、5年前と比べても、さらに発展して賑やかになった気がする。空港から市内もエアポートリンクという高速鉄道ができて、いたって便利になっていた。久しぶりに来るといろいろと変化が多くて、お上りさんの観光客のようにポカーンと口をあけて見上げていたりする。
どこに行こうか考えたが、なじみの深いバンコク中央駅ともいうべきホアランポーン駅に行ってみた。ここは1897年にタイに最初の鉄道ができた時に設置された、由緒正しい首都の玄関口である。ホームは行き止まり式で大きなドームの屋根がかかっている。その姿はどこかヨーロッパのターミナル駅を思わせる重厚な雰囲気がある。
当時のタイの王様ラーマ5世は、鉄道や道路網を整備してタイの近代化を果たした名君として今も人気が高い。そのラーマ5世は即位するとすぐにヨーロッパに視察に出かけ、国家の近代化を学んだというから、ひょっとしたら彼の地で大きな駅をこの目で見た国王の意向が建築にも反映されているのかもしれない。
バンコクでは通勤通学で国鉄を使う人はあまり多くないので、ホアランポーン駅も地方からの上京者がおもなお客さんだ。そういう意味では、東京駅より上野駅に近い印象だ。タイでは遠距離輸送の主役はバスで、鉄道はやや影が薄いが、2等車の運賃は安いので田舎から出てくる庶民にとっては今も大切な足だ。
よく知られているように、日本の国鉄時代の車両が払い下げられてタイ国鉄で活躍している。1時間もいれば、14系客車などの懐かしい姿も見ることができる。
駅構内には、赤帽、物売りなど、さまざまな人々が働いている。
レトロな客車と駅の雰囲気がよく似合う。
出発を待つ列車。
一部にディーゼルカーがあるが、主力は客車だ。
ところで、このホアランポーン駅のすぐ裏手に珍しい車両が保存されている。こういう車両があることは知っていたが、本物を見たのは初めてだった。
日本語では「軌道戦車」とでも言うのかな?
明日は有名なバンコクのローカル線、メークロン線を紹介します。
長かった梅雨が明けると、そこには懐かしさと共に、空と大地と水が最も輝く季節が待っています。
むせるほどの緑はその色をより一層深め、風は心地よい湿度を含ませながら吹きわたる。
夏の輝きにちなんだ3つのシーンをご覧ください。
なお、2011年はとても痛ましい夏になりました。
7月30日の新潟・福島豪雨で、只見線の鉄橋が3つも流失してしまったのです。
輝ける朝
朝露輝く瑞々しい夏の朝。山の端から昇る太陽は、みるみる大地を乾かしてゆく。
今日も猛暑日になりそうだ。
HASSELBLAD 500CM Distagon CF 50mmF4 T*
盛夏-水の郷
水しぶきが上がり、子供の歓声が響く、水の郷の夏。
暑さが峠をこした午後に、いつもの列車が鉄橋を渡ってゆく。
HASSELBLAD 201F Distagon CF 50mmF4 T*
(この数日後に豪雨がありました。幸いこの鉄橋に被害はありませんでしたが、今度列車と子供たちが見られるのはいつのことでしょうか…)
夏空高く
照りつける日差しの中に、なぜか静寂を感じる夏のまひる。
一日6本の列車の他には、人の気配さえ感じない閉ざされた空間。
HASSELBLAD 201F Distagon CF 50mmF4 T*
(豪雨の後、列車が来なくなって数日がたちました。少し先の鉄橋が落ちてしまったのです。)
世に「○○の三大聖地」などという言い方をすることがある。ネグロス島も、さる筋の人々にとっては憧れの三大聖地のひとつなのだが、それは何かと言えば、「蒸気機関車によるサトウキビ運搬鉄道」という聖地である。ちなみにあと2つはご存じのようにインドネシアとキューバである。
ネグロス島一番の町、バコロドに宿を取った。だいたい汽車を見に行く旅だと宿に贅沢はしないから三流ホテルが多いが、昨晩もいかにも田舎のホテルにありそうな安っぽいディスコが深夜までうるさかった。
朝、寝不足は感じない。目指したのは、近くのラ・カルロタ製糖工場である。製糖工場というのは実に甘ったるい匂いがするのである。空気も何となくベタベタしているようにすら感じる。縁日で綿アメの露店の匂いをもっと強くした感じだ。この甘い香りが鼻孔をくすぐり、脳を刺激すると、新たな汽車との出会いに期待して興奮してくるのがわかる。
工場では手数料を払って、今日一日撮影させてもらう。列車の運行情報をもらい、どの畑に行くべきかを教えられる。向こうも手慣れたものである。何しろここは「聖地」であるから、世界中からその手の方々が巡礼にやってくるのである。収穫に向かう列車に同乗してフィールドに出発だ。行きはカラ荷なので、貨車の上で風に吹かれるもよし、汽車の運転室にあがって煤にまみれるのもまた風情である。
機関車の燃料は石炭ではなくて、バガスと呼ばれるサトウキビを搾り取ったあとの繊維を固めたものだ。実はこれこそが蒸気機関車を使っていた理由である。ディーゼルにすればもちろん軽油代がかかるし、牛馬に引かせてもエサ代がかかるが、これなら砂糖精製のあとのカスだからタダである。しかしバガスには大きな問題点がある。石炭に比べてカロリーが低いので、大量に燃やさないといけない。機関助士は一心不乱にひたすらバガスを投げ込んで燃やし続けている。なんだか風呂を焚くのに紙くずや新聞紙だけで燃やしているようなものである。さすがにこれでは火力が足りないとみえて、ときどきバケツの中のオイルを柄杓ですくってかけている。どす黒い油なので、何かと思ったら工場やトラックの廃油だそうである。いやはや廃物利用が徹底している。しかし、まあやっぱり能率が悪いのであろう。この鉄道も大半の機関車は重油を燃料にするように改造されていた。これは盛大な黒煙が出て写真的には迫力が出るけど、石炭の煙とはちょっと雰囲気が違って荒々しい。
やがて見渡す限り地平線までサトウキビ畑の中で列車は止まった。大きく育ったサトウキビの背丈に隠れるようにして、アリのように多くの労働者が刈り取り作業をしている。炎天下で黙々と動くフィリピン人を見ていると、酔狂に汽車を見にきた身が申し訳ない。
さてサトウキビが満載になった、帰るとしよう。力のない汽車には荷が重い。スリップをくり返し、行きよりもさらに遅い速度で工場までの家路をたどる。ガタゴトとゆれる貨車からはサトウキビがバラバラと落ちるが気にしない。やがて工場の煙突が見えて、かすかな甘い香りが感じられる頃、サトウキビの海の彼方に夕日が傾き、今日も一日よく働いたという気分になった。実際には遊んでいただけなのだが。日焼けでほてった体にシャワーを浴びて、さあ、サンミゲルで乾杯だ! 明日もがんばるぞ。
もし汽車が走っていなければ、まず一生行くことがなかっただろうと確信できるような場所に、いくつも旅行してきた。これといって観光地や名所旧跡があるわけではない、ただの田舎町か辺境地帯。汽車が生存しているのはそんな所が多い。ここもまさにそのひとつである。訪れたのは1990年12月。きっかけはイギリスの趣味誌に載った、数行のごく簡単な紹介記事だった。いわく、「中国国内でも、ここでしか見られない米国製の汽車が走っている‥‥。」 聞き捨てならない。これは行かねばなるまい。
箇旧駅にて出発を待つボールドウィン29号。 1Eテンダー わずか610ミリのナローらしからぬ堂々たる機関車。一目で気に入ってしまった。
雲南省の省都、昆明から夜行列車で南下。ベトナムのハノイに向かう路線だ。翌朝、開遠という町で下車。さらにローカルバスで山道を揺られて、やっとたどり着いた町が箇旧だった。すでに日本を出てから2日以上経っている。ベトナム国境も近い山中の小都市だが、意外に活気があるのは、錫の特産地として有名だということである。町の中心には金湖という名の大きな池があり、なんとなくエキゾチックな風情がある。
ホテルに荷物を置くと、さっそくカメラだけを持ってまず駅に行く。ガランとして汽車はいない。時刻表はなく駅員に聞くと、午前と午後の2往復のようだ。次の列車までまだ時間があるので、駅構内を軽く散策した後で向かったのは公安局である。当時の中国には未解放都市というのがあり、外国人が訪れる場合、地元の公安に出頭するということであった。田舎の公安局の女性職員は突然訪れた外国人に驚くこともなく、実は僕の名前もパスポート情報もホテルから連絡がはいっていた。さすがである。
列車の時間が近づいたので、駅から歩いて線路際で到着を待つ。未知の鉄道の初めて見る汽車。いつもこの時が最もワクワクドキドキで落ち着かない時間だ。線路は人民の生活道路になっていて人や自転車、バイクも通る。みんな、カメラを下げた異邦人をジロジロ見ていくが、こちらもこういう扱いには慣れている。定時に遅れること30分ほど、ディーゼルカーのような警笛が聞こえた。「もしや、もうすでにディーゼルカーに替わってしまったか。」と一瞬いやな予感が頭をよぎる。しかしほどなくして向こうの空に煙が見え始めた。「まちがいない、汽車だ!」 ペンタ67に気合いを込めて握りなおす。カーブを回って目の前に現れたのは、典型的な米国スタイルの汽車。私好みの形である。小型だが力の強そうな汽車が車体をふるわせながらゆっくりと通過していく。列車を見送って、思わず「おーっ」と感嘆の声が出てしまった。こんな異国の山の中まで来て汽車に巡り会える幸せ。
町の名所、金湖のほとりを歩いて戻る道すがら、無事汽車を見て気持ちに余裕ができたか、逆光に輝く湖面が、眩しく美しく、渡る風が少し汗ばんだ首筋にとても心地よかった。
タイ国鉄がプミポン国王の誕生日である12月5日など、特別な日にバンコク〜アユタヤ間に祝賀列車を走らせる。この日だけはピカピカに磨き上げられた2両の蒸気機関車が先頭を走るのだ。
タイ国旗とタイ王室の旗を掲げて走る。
タイ国民が敬愛するプミポン国王は、かつて全国各地を精力的に行幸され,その際にはしばしば鉄道を利用された。また離宮のあるホアヒンやバンパインの駅には王室専用の瀟酒な駅舎があり、やはり鉄道を利用されることもあったようだ。
今でいうライブスチームのような汽車にまたがって遊ぶ、ご幼少の頃の写真を見たこともある。若い時から交通機関に非常に関心が高かったと伝えられる国王は、実は鉄道がたいへんお気に入りなのではと、ひそかに推察する次第である。
この祝賀列車は観光用のイベント列車として定着しており、朝バンコクのファランポン駅を出発し、通常の列車よりゆっくりと2時間ほどで約70キロ離れたアユタヤ駅に到着する。バンコク市街を出たあとは,のどかな田んぼの中をひたすらまっすぐ走るだけなので,車窓風景はいささか単調で盛り上がりに欠けるが、車内は家族連れやグループ旅行で出発前からにぎやかなことである。汽車の前で子供の写真を撮ったり、お菓子を食べながらおしゃべりをしたりと、いずこも同じ微笑ましい風景である。到着後は有名な古都アユタヤの寺院巡りを半日ほど楽しんで、夕刻またバンコクに向けて戻ってくる。
きれいなグリーンに塗られたカマ。
ところでこの2両の汽車、日本製である。戦争中、有名な泰緬鉄道向けに約90両の汽車が軍需物資として送られているが、それではない。この2両は戦勝国となったタイに、日本から戦時賠償という形で昭和20年代に輸出された汽車の生き残りである。
実は、アユタヤに2年ほど住んでいた。タイ生活最後の年、下見に行っておいた田んぼの中の見晴らしのよいポイントに車で出かけた。カメラをセットし入念に構図を決める。何度も来ているので迷いはない。望遠レンズのファインダーをのぞくと、遠くの線路脇に人影が見えた。日本ならこんな日に線路際にいるやつは鉄道ファンに決まっているが、ここはタイである。まだ鉄道趣味は一般的ではない。
タイの「乗り鉄」グループ
近づいて話しかけてみると、中年のタイ人の鉄道ファンだった。それもかなり本格的な。機材もさることながら、マニア同士ならわかるオタク特有の雰囲気を発散している。日本の鉄道雑誌も見ているという。タイに鉄道ファンはいるのか聞いてみると、彼は「多くはないけど仲間はいるよ。ロットファイで、時々集まっているよ!」と言った。「ロットファイ(鉄道)」とはバンコクにある、客車のような内装が売りのカフェレストランである。
名刺を交換して「今度集まる時にはおいでよ」。と言われて別れた。その少しあとに僕は帰国してしまい、約束を果たしていないが、今度タイに行く時には、日本の鉄道雑誌をお土産に、会ってみたいと思っている。
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