月日が経つのは早いものである。日本人とは馴染みの深いフランスの音楽家ポール・モーリア氏が忽然とこの世を去ってから、8年が経とうとしている。お若い方はご存じないかも知れないが、手品のときに流れる曲(オリーブの首飾り)の演奏者といえばお解かりいただけることだろう。
セーヌ川のクルーズ船から撮影したビル・アケム橋を渡るパリメトロ6号線。ここから眺めるエッフェル塔の景色が観光客に人気だ(上)。無人運転の14号線の先頭車は、すばらしい眺め。ピラミッド駅付近(左)
私がポール・モーリア氏の音楽と出会ったのは、1974年。アルバム『イエスタディ・ワンス・モア』からだ。ちょうど、カーペンターズの全盛期。SLの終焉が目前の頃である。
以来、飽きもせず毎日のように聴き続けているのだが、この美しい旋律と私がイメージする鉄道写真の印象とが、どこかリンクしているように思うのは私だけだろうか。
生涯、約1,500曲ものレパートリーを残したポール氏。今もなおCDなどが世界各国でリリースされ続けているが、やはりなんといっても日本公演の多さだろう。1969年に初来日して以来、ほとんど毎年のように日本各地でコンサートを行ない通算約870回の公演を数える。
リヨン駅を後にするTGV。この構内には、いったいいくつのダブルスリップポイントがあるのだろう。(上) サンラザール駅での一コマ。改札口も無く、開放的な駅。(右)
上野駅のようなイメージのリヨン駅。南フランス、スイスや、イタリア、スペインなどに向けてTGVが次々と発車してゆく。(下)
ポール氏の引退後、コンサートホールのイメージどおりに曲を再現するために、全身全霊をかけてセパレート・アンプを製作したのも楽しい思い出。
また、以前、病に倒れた時に、いつも心の支えとなってくれた氏の名演の数々は、当時の私にとって音楽療法そのものだった・・・。 どれだけ身も心も癒されたか知れない。
この頃から、いつ日か墓地に参拝して命の恩人であるポール氏に心からお礼を申し上げたい・・・。そう、思うようになっていった。
ポール氏と40年以上もの親交があった近くに住むT氏もファンのお一人。私たちの母校でもある船橋市立海神中学校の創立50周年の際、元PTA会長でもあった氏がポール氏に作曲を依頼し、特別に書き下ろしていただいた記念曲『トリトン』は、ポール氏よりプレゼントされた宝物。
今では、当校のイメージソングとして、晴れの日に吹奏楽部が演奏し、生徒たちに歌われている。
ポール・モーリア氏直筆の『トリトン』のスコアは、氏が海神中学校へ寄せた手紙と共に玄関ホールに大切に展示されている。
日本公演のときなどは、常にポール氏をサポートされていた奥様のイレーヌ夫人。現在90歳になられるがとてもお元気だそうだ。
昨年末、T氏より夫人に改めてその時の御礼をしたいという相談のお電話をいただき、私も協力させてもらうことになった。
さて、どうしたものか。記念曲『トリトン』の息づく母校をストレートに奥様に観てもらうにはやはり写真がいいだろうという事になり、早速、海神中学校を特写しアルバムを制作。何とか仕事をやりくりして、フランス行きの決行となった。
まだ暗いリヨン駅。7:15発のTGV 9711は、バルセロナ行の直行便。ペルピニャンまでは5時間弱の長旅だ。
ポール氏の遺骨は、ペルピニャン南墓地の中にあるコロンバリウム(納骨堂)の306に埋葬されている。訪れた日は、穏やかな春日和で雪が残る標高2,784mのカニグー山を遠望できた。(上)
今回は、スケジュールの関係で直接イレーヌ夫人にアルバムを手渡すことは叶わなかったが、ポール氏の眠る墓地と別荘がある南フランス・ペルピニャンに在住するポール氏の甥子さんご夫妻に大変お世話になり、念願だったお墓参りが実現した。
その後、別荘にも特別にご案内していただき、家内と共に夢のような至福の6日間のポール・モーリア氏を偲ぶ旅となった。
ご夫妻は1980年以降、毎夏この別荘で長いバカンスを過ごされた。氏が生涯こよなく愛したアウトドアスポーツのペタンク。写真は、愛用していたマイボール。プールの左奥に照明付のペタンク場がある。(上)
ポール氏は生前、パリ市内の事務所の執務室かこの別荘で作曲やアレンジなどの仕事をされていたそうだ。このピアノから、いったいどれだけの名曲が生まれたことだろう・・・。(下)
撮影:2014.2.15-18
Nikon Df 16-35mm F4 ・ 24-70mm F2.8 ・ 70-200mm F4
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